サワサワサワ――――。
裏庭に降りてくると、風が葉を揺らす音が響いていた。五月に入り、さらに青々としている葉っぱは春らしいさわやかな風を感じさせてくれる。
ディアンはデビを引っ張って目の前の緩やかな坂を登っていた。四月にマサキから集合場所に指定された、木の下へと向かう道である。解放スペースのベランダからは、裏庭がよく見える。そこから裏庭を見たのは、目当ての人物がおそらくは裏庭にいるだろうことをディアンが確信していたからだった。そして案の定、彼はそこにいた。
「…………」
「マサキ先生、ちょっといい?」
「……」
「なんか言ってよ」
「……なんでしょう?」
目の前で本を広げたまま、マサキはいつも通りの抑揚のない声でそれに答えた。大きな木の影で、根本に座り込んでいた彼はその眼前にいるディアン達には見向きもしない。意識半分ということをアピールしているようだ。
「先生ってさ、火影だよな」
ページをめくろうとしていたマサキの手が止まる。その反応に、デビは「そんなはっきり言っちゃだめだよ、怖いよ」とディアンの影に隠れたまま小声で呟いていた。しかし、当のマサキはほんの少し動揺しただけなのか、ちらりとディアン達の方を見、またすぐ視線を本へと移した。
「……」
「な、なんか反応しろよ」
「……そうですよ。俺は火影です。人々に恐れられ、忌み嫌われている、最強の戦闘民族の火影です。それが何か?」
慣れたような言い方でマサキがそう返してきたのに、ディアンの頭の中でカチンという高い音が響いた。いかにも流す気満々です、なマサキの態度に頭にきたのである。
「なんだよ、涼しい顔して! 今から質問をするから、それに素直に答えろ!」
「……命令形ですか。えらそうですね」
必死なディアンの形相に、マサキはさらに馬鹿にしたようにそう言うが、「どうぞ」と言って、また本を読み始めた。「ほんとに答える気があるのかよ」とディアンは問いかけるが、マサキは無反応だ。仕方なく、ディアンは質問を始める。
「先生って、なんで教師になったの?」
「……俺は教師じゃありません」
「だから、なんで俺達の担当になったのかって聞いてるの!」
「……成り行きです」
「絶対、嘘だろ!」
マサキの飄々とした答えに、ディアンは怒声を上げるが、そんなものどこ吹く風、な様子でマサキは本を読みふける。何も言わなくなったマサキに、歯軋りしながらディアンは次の質問を問いかける。
「先生ってさ、前に俺達のことを襲った火影と知り合いなの?」
「……」
「答えてよ、素直にさ」
「……違いますよ」
「ほんとにぃ?」
「……」
黙りこんだマサキを見て、少し突っ込んでいきたくなったのか、ディアンはさらに問いを続ける。
「前に俺達を助けてくれたのって、自作自演? だから、あの時兄ちゃん達に囲まれてすぐ逃げ出したのか? なぁ、どうなのさぁ?」
「……」
「ん~、もしかして素干しかなぁ」
「ディアン、図星だよ」
「……図星だったのかなぁ。なぁ、先生」
さらに黙り込んでしまったマサキに、冗談のつもりだったディアンは顔を青くして「まさか、本当なんじゃ?」と呟くとマサキから少し離れた。マサキは何も言わない。ただ、そこでほんの少し悲しげな表情を浮かべた横顔が、ディアンにははっきりと見えた。
「……せ、先生? 結局、どっちなんだよ? なぁ?」
「……」
「はっきり言ってくれよ! 本当のこと……をっ」
そこまで言った所で、マサキから鋭く睨まれてディアンの言葉は勢いを失う。彼は笑うことも少なければ、怒ることさえ滅多にない。そんな彼の睨みは、威圧感というよりもディアン達を敵視しているようなそんな睨み方だった。
ディアンとデビが少し怖気ついている間マサキはゆっくりと、目の前の本を読み続けていた。一段落ついたところで、彼は黄色い花の描かれた栞を取り出すと、それをページにはさみ本を閉じた。
「ど、どうなんだよ! 先生、ほんとはどっちなんだ?」
「……悪いことはいいませんから、それ以上俺に関わるのはやめておきなさい。そうじゃないと……、次に死ぬのは君達です」
「……ど、どういうことだよ、それ。先生が俺達を殺すってことか?」
ディアンの後ろで、警戒するようにマサキを見ていたデビも意味が分からず呆然としている。そんな二人を尻目にマサキはゆっくりと立ち上がる。側に置いていた何冊かの本と、先ほどまで読んでいた本を抱え、あの沼のように濁った瞳を二人に向けて。
「……一ヶ月前にも言いましたけど、もう分かってるんでしょう。分かっていないのだとしたら、俺に関わっていても良いことは一つも起こらないと、そろそろ気づくべきです。……この国の人達にとって、俺は死を招く亡霊だということにね」
濁った瞳は、やはり始めて会った時と同じように、ずっと見ているとブクブクと沈んでしまいそうな沼のようで……、生気はないと言って不思議はないものだった。そんな目で見られることに、恐怖したのか嫌になったのか、デビは早々に目を逸らした。
「……何言ってんだよ、先生」
一方、ディアンは濁った瞳を見返すと、本を抱えているマサキの腕をグッとつかんだ。突然のその行動に、デビは元よりマサキも動けずに呆然とした顔でディアンを見た。少し冷静になったマサキが「何をするんですか?」とディアンに尋ねると、ディアンは顔をしかめ、怒ったように言った。
「亡霊ってなんだよ? 先生は死んでないじゃん。俺の手が、先生の腕を掴んでる感覚あるだろ?」
「……もちろんありますが……」
「そりゃ、先生の顔は死んだみたいな顔だし、正直生きてないって表現は合ってるから、他の人がそう言うのは分かるけどさ」
「……随分はっきり言ってくれますね」
「自分で自分のこと、亡霊だなんて言うなよ!」
「!」
マサキの小言をかき消すように、ディアンが言った。マサキが目を丸くする。今までなかった表情が、ほんの少しだけ顔に出たのだが、今のディアンの目はそこに向いてはいなかった。
「顔色が悪くても、触れば分かる! 先生はまだ死んでないって。暖かいし、目にも見える! ちゃんといるのに、いないとか言うなよ!」
彼は真っ直ぐ、光のない濁ったマサキの目を見ていた。薄く緑がかったコバルトブルーの瞳に木陰から漏れた光があたって、宝石のように輝いている。その様子を見た瞬間、マサキはサッと目を反らすとディアンの手を振り払うと、逃げるように校舎へと向かっていった。途中本を一冊落としたのにも気づかずに、彼は中庭へのドアを乱暴にあけると中へと姿を消した。
「さっきはなんであんなこと言ったの?」
教室に戻ってきたディアンの隣で、デビがそっと耳打ちをした。ディアンは「あとで」と口で伝えると、前の壁掛け時計を見た。もうすぐ四限目が終わる。
あれからすぐチャイムが鳴り、二人は急いで教室に戻って授業を受けた。授業は社会だったが、ほとんど聞いていない。それ以上に、マサキの言葉が頭を回っていた。どうしてあんなに否定的な言葉しか出てこないのか。そんなに火影だということが、問題なのか。ふとマサキが一瞬見せた悲しげな顔を思いだし、あの時、なぜ彼があんな顔をしたのかということについて考え始めた。
「……なんか悪いこと言っちゃったのかなぁ、俺」
あんなに深く突っ込むんじゃなかったなと後悔しても、もう遅い。もしかしたら、これから先彼と言葉を交わすこと自体がなくなる可能性も十分にあった。元から、あまりしゃべらないのに、これ以上しゃべってくれなくなると、本当に彼の思っていることがさっぱり分からなくなってしまいそうだ。どうにか、先ほど手に入れた物を口実に、仲直りだけでもできればいいのだが。
社会科を担当しているサトが黒板の方へ向いたのを見て、ディアンは先ほど拾って帰ってきた本を取り出した。マサキが落としていった例の本である。膝の上に置いて見てみると、どうもそれはマサキが木の下で読んでいたものらしかった。茶色い表紙には続け字で何かが書いてあるが、うまく読みとることはできない。結構分厚くて、中のページに所々染みがついている様子だと古い本なのだろう。パラパラとページをめくっていたディアンはあるページに、あの栞が挟まれてあるのを見つけた。描かれている花は、黄色くて花びらの多い花だ。しかしよく見かけるタンポポではない。もっと葉の先が八重状になっていて、茎が太くてこじんまりとしているような……。
「本を読んでいるのは誉めるけど、僕の授業中に別のことをするのは頂けないなぁ」
不意に頭の上から声が聞こえたので、ディアンはとっさに持っていた栞と本を一緒くたに机の中にしまう。恐る恐る顔をあげると、さわやかなサトの笑顔があった。
「ハハ……サトさん、あのさ」
「授業中に別のことをしてたら、それは取り上げさせてもらうって初日に言ったよね?」
笑顔のままでサトは言うと、これは没収と机の中から本を取り出して言った。
「あっ、サトさん、待ってよ!」
「何を言おうと授業が終わるまでは返さないよ」
「それ、マサキ先生のなんだよ!」
ヒラヒラと手を振りつつ、教壇に戻ろうとしていたサトの歩みがピタリと止まる。彼は顔をしかめ、くるりとディアンに向き直るとパラパラと本をめくった。
「……まぁ、そんなことを言われても返さないけど……。マサキから借りたのかい?」
「借りたんじゃなくて、落としていったから拾っといたんだ。あとで返そうと思って」
「……ふうん。じゃぁ、落とし物か。……うん、ならこれは僕から返しておくよ」
「サトさん、でも」
「『哲学論集』。こんな本、君が読んでも眠くなるだけだと思うよ、ディアン」
意地悪くクスッと笑うと、サトは本を手にしたまま教壇へと向かった。ちょうどその時、チャイムが鳴った。
「はい、じゃぁ授業はここまで。来週はお休みだから、再来週に各班ごとに戦争についての発表をしてもらうからね。どの戦を取り上げるか、被害状況、場所、日付、起こった原因、そして自分達が気づいたこと思ったことをまとめておくように。あと、二班は一班に火嵐、三班に水野がついてね。順番は、一班と八班がじゃんけんして決めておいてくれ。負けた方が最初ってことでよろしく~」
人好きのする笑顔を浮かべ、学簿を手にサトが教室を出ていく。あの本もしっかり彼が持っていってしまったのを見て、ディアンははぁとため息をついた。
「ディアン」
「せっかく、マサキ先生と仲直りするきっかけにしようと思ってたのに~」
「ディアンってば」
「なんだよー、デビ?」
「椅子の下、何か踏んでるよ?」
デビにそう言われ、ディアンは渋々椅子の下を見た。確かにそこには一枚の紙と先ほどの栞があって、がっちりと椅子の脚に挟まれていた。
「やっば。これ、先生のなのに……」
「マサキ先生の?」
「さっきの本に挟んであったんだよ。あとで返さないと……ん?」
栞を拾い上げたディアンはもう一枚の紙に目をやった。先ほどの本には挟まれていなかったはずのその紙を、広げて確認をしようとしたその時、誰かがその肩を思い切り叩いた。
「さぁ、じゃんけんするわよ!ディアン!」
「ギャッ!急に肩たたいてんじゃねぇよ、金虫!」
「文句言ってないでさっさとしましょうよ。それともお勉強の邪魔だったかしら?無理に哲学の本なんて読んだら、頭パンクするわよ」
クスクス笑いながらレイにからかい半分にそう言われ、負けじとばかり何かを言い返そうとディアンは身を乗り出した。
「あれは俺のじゃなくて、先生のだって言っただろ!」
「拾った時に返せばいいのに。興味半分に持ち帰ったりするから、取り上げられちゃうのよ」
「すぐ中庭に先生が消えちゃったから渡せなかったんだ!」
「もうほら、喧嘩は止めてじゃんけんしちゃってよ」
二人の喧嘩を止めようと、デビが間に割って入り、仕方なく二人はにらみ合うと勢い良くじゃんけんを始めた。その様子にデビはほっとしたようにため息をつき、ザラは呆れた顔をしてじゃんけんの行方を見守っていた。
「……」を使うことの多い人が会話しているせいで、やけに空白が多い。だが、おかげで逆に見やすいような気がするのは私だけか。 くそぅ、こいつの「……」、めんどいんだよ。もっとテンポよくしゃべってくんないかな。 なぁ、そこんとこどうよ?
レス 「…………無理」
ザラ 「それで即答してるつもりなのか?」
レス 「……うん。……遅いか?」
ザラ 「とてつもなく遅いな。逃げ足だけは速いくせに」
ディアン 「なんの会話だよ!」
デビ 「無理して入っていかなくてもいいと思うよ、ディアン」
私的なイメージで、レスのしゃべるテンポは超ゆっくり。本人はこれでも普通のテンポでしゃべってるつもり。ザラちゃんは逆に早いイメージ。常に即答。ディアンやデビは普通です。そういった表現もできればいいんだけど、遅いのはともかく早いのはどう表現するべきか……。今のだとザラちゃん、普通だもんな。