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じゃあ何をしに来たのかというと、一応前に書いた物を置きに。
両想いを書いてみよう、ということで。私の精一杯の両想い…―とは何か、みたいな。
相い思いあい相い愛はしむ
彼女は疲れていた。
彼女の思いは彼に届かず、彼の思いは彼女に伝わらなかった。
想いを天秤にかけることなどできやしないから、いつまで経っても釣り合いはとれない。もういいじゃないと心のどこかで思うのに、もういいと思われることが怖い。釣り合いがとれるどころではない。天秤の端と端では、触れることさえ叶わない。
いっそこのもやもやを全てぶつけて喧嘩でもしてしまえばいいのだろうか。でもなんと言っていいのか分からない。傷つけたいわけじゃない。いっそ傷ついてしまいたい。
思わず洩れた溜め息に、彼がやめろよという風に空気を揺らす。そんな気配は、見なくても感じとれるのに。弁明したくても、何をどう言えば伝わるのか分からず、結局面倒臭さが先に立って、彼女はかろうじて二度目の溜め息を呑み込んだ。
「そういうの、空気で分かるんだよ」
彼の言葉に、彼も又同じようなことを思っているのだと、彼女は少しおかしくなった。彼もきっと、分かっていて口に出した。そんなことは口にしなくても分かる。そんなことばかり分かる。
「それなのに、ね」
理解させることを放棄した、意味のない言葉。理解させる努力もしない、無責任な言葉を彼女はなげた。少し、疲れていた。無意味な言葉の群れはただなんとなく雰囲気を悪くして、けれどぶつかりもせず流れていくのが常だった。もういい、と思ったのかもしれない。
彼の目が彼女をとらえた。
阿蘇は両手で挟むようにして宗像の顔をあげさせた。
その内側まで透かし見ようとするように、宗像の目を覗きこむ。宗像も負けじと睨み返した。
目は体の中で唯一生きていることを感じさせる。だからそこから何かを読み取ろうとしてか、目と目を合わせる。宗像の瞳には阿蘇の顔が、肩が、首が、胸が映っている。そのどれにも増して、生々と生命を表しているのが目だ。けれどどうしても、その中までは見通せない。同じく、黒々とした宗像の瞳に映る阿蘇の目も、宗像の表面を映すだけで、決して内面を暴きはしない。互いに互いの内側を覗きこもうとするけれど、それらが曝けだされることはなく、曝けだすこともない。
まるで互いに目で喰らい合おうとでもしているかのようだ。相手の全てを引きずり出し、手の内に収めたいと願っている。剥き出しの自分に剥き出しになった相手をすり合わせたいと思っている。腕も足も腹も首も、そのためにはいっそ邪魔なのではないかと思われる。相手の体を引き裂いて、その真ん中から心だけを取り出せたなら。
けれどそれをすれば終わりだと二人とも知っている。そんなものはそこにはない。暴いてしまえば失われることが分かっている。だから輪郭をなぞりながら、中にある物を夢想するしかない。
阿蘇が口の端を持ち上げた。
「そうだ。僕たちはお互いに、満足のいく日などこない」
心を計ることなどできない以上。宗像も強い視線で阿蘇を見詰め返した。
「そう、永遠に。気持ちの釣り合いなどとれない」
「それでいい」
はじめから、決まっていたことだ。
捧げ合ってぶつけ合って、それでも永遠に届かないものを、ふたりは愛しているのだから。それでも求め合うからここにある。
「そうやって」
「僕たちは愛を確かめ合おう」
了
あれだ。「すなわち愛とは―その手段においては戦いであり、その根底においては両性間の命がけの憎悪である、と。」 ニーチェ『この人を見よ』
両想いを突き詰めて考えると、私はここに行き着くらしいです。私の書くふたりには、「わかりあえないこと」が大前提になっています。別の存在である以上、それは愛しい事実であると思うのです。