[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
自分用のメモです。
創作するときにこういうことを考えたりもするのだけれど、まだ自分のなかでまとまりがつかないもの。そこらへんの裏紙に書いたりするので、どこにいったか分からなくなるから、ここに保存。まとまった何かではないのでスルーしてください。
日常的に考えては行き詰まっていること。
誰もが生き延びたいと思っている。限られた世界の中で。限られた自分の中で。
だから己の生き残るためには奪うのだ。というのではなく。力で奪った者は、それ以上の力で奪われ得る、ということ。それを理解すること。
奪い合う連鎖を自然とせぬように。
誰もが生き延びたいと願い、誰もが奪う側になり得る。
食物連鎖の言葉よろしく、奪い合いは容易く連鎖する。限りのあるものを巡って、或いは貪欲のために。連鎖する。
脅かされる恐怖から身を守る術は力しかないのか。
奪われる側にならない為には、奪う側にまわるしかないのか。しかしそれでは連鎖は続く。
そうではない巡りはないのか。
奪うか奪われるかの二者択一ではなく。それ以外の道を求めなければならない。でなければ結局行き着く先は滅びだ。
弱肉強食の、けれども弱者と強者は容易に入れ替わる。
わたしはどちらにもなりたくない。
弱者で在る内は無自覚でいられても。強者で有り続ける内は無自覚にあれても。いずれ気付かなければ。
反抗すべきはなんなのか。何と戦うのか。何が敵なのか。
そもそも敵はいるのか。
弱肉強食
弱肉強食の世界では弱い者は救われない。
対抗する力を数とするならば、やはり少数が弱者となる。
力あるものが勝つというのは、強者の理屈。数で勝つのは、やはり多数者側の理屈。都合のいい理屈。
小さき者は。弱き者は。
強者の傘に入ることで助かるとしても、そこから抜けることができないのでは檻と同じ。
力に別の力で対抗しようとしても、それは体制を変えるものではなく、弱肉強食の論理に追従するものである。
力以外の方法を考えなければならない。
しかし力を持っている側は、力でなければ認めない。
武力を保持し、それによって己を守り、それでもって世界の論理とするものは、武力を持たないものの言葉に価値を認めない。ここに生ずるジレンマ。
力を否定するための力を手段として認めるのなら、相手の理屈に呑まれてしまう。自分も力の行使によって主張を通したがゆえに。
弱肉強食は自然の原則である。
原則は厳しくとも、例外の存するものである。絶対定理ではない。それを知る人間は腕力では劣る相手にも、腕力によらない手段を見つけ対抗してきた。
それは別種の暴力だろうか。なにものかを、そのものの意に反して押さえつけるものを力と呼ぶなら。
弱肉強食を肯定し、肯定した上で別種の力を行使するか。
多様なあり方を、各々の才覚を認めるのならば、暴力も肯定するべきか。
知能は、心はなんのためにあるのか。
幸い
ひとに誰かに幸せになってほしいと思うのは、何か押しつけがましいまちがいなのではないかという気がることがある。
幸せになってほしいという私のねがいは、その人のしあわせにはなんの荷担もしない。見守っていることしかできない。それで幸せになるとは限らないし、そもそも何が幸せなのかわからない。
幸せは、曖昧で、人によってちがう。そうだろうか。
それでも幸せになってほしいという願いの切実さはなんだろう。
たぶん、幸せとは祈りであり願いである。